私が作曲した“セロ弾きのゴーシュ”を岡山県の里庄町で上演しました
「さとしょう」と読みます。
私が作曲した宮沢賢治原作の“セロ弾きのゴーシュ”の公演が、里庄町の図書館の25周年記念の催しに光栄にも呼ばれました。
ここは演奏会場ではないので、ピアノも電子ピアノでしたし、響きが豊かとは言えない視聴覚室での公演でしたが、多数の方にご来場頂き、音楽に興味がある方々もいらしたでしょうが、読書好きの子供たちから大人達まで、いらしたのでいつもとは客層が違ったかも知れません。
嬉しかったのは、上演直後“セロ弾きのゴーシュ”の本を借りていく子供さんを見た事です。
僕の音楽が彼女が改めて本を読み直したときに頭の中に鳴るという奇遇は宝物です。
山猫合奏団のPHOTO蔵のページ
http://photozou.jp/photo/list/2999744/7948280
にこの他の演奏風景などの写真を沢山出しました。
この作品は、宮沢賢治の原作を語り手が(この場合一人ですが、通常は二人でやっています。一番右の高山正樹氏)読み、ゴーシュの台詞は演奏者がそのまま演じて読む(チェリスト大島純氏)。
そして、左の私はゴーシュにつらく当たる楽長(指揮者)の台詞「など」を喋りながら自分で書いた音楽を弾くという形式です。
自作品を演奏する団体、山猫合奏団というのを主宰しています。
http://ensemble.lince.jp
アルバム: 自分の演奏姿
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コメント (10)
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とっても素敵なエピソードでしたね♪
嬉しい気持ちとっても良く分かります(o^^o)
演奏も素晴らしいものだったのでしょうね♪
興味深いです(*^^*)2013年9月10日 09:46 みゆき(多忙&体調不良につき、暫くお休みしますです) (61)
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みゆきさん、そのうち聴いて頂ける日が来ることを祈っています(#^.^#)
来年9月に都内で僕が今まで書いたすべてのこの団体の作品を数日にわたって連続上演する事が決まりました。
最初の作品、やはり宮沢賢治の“どんぐりと山猫”の冒頭、山猫から一郎さんに来る謎の手紙の日付が9/19、そして手紙を受け取った日が土曜日、偶然ながら今年の9/19は金曜日なので(爆)、9/19を皮切りに始めようと言う事を昨日決めました(爆)2013年9月10日 10:18 白石准 (40)
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子供達の小さな肩が一生懸命聞いていますね
あとから、山猫合奏団のフォト蔵 覗いてみます2013年9月10日 12:01 雪のんの (6)
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白石准さん、こんにちは。月光花です。
音楽と写真って共通項が多いと感じるのです。ヒトに与える感動って言う意味で(笑)先日、全く写真に興味ない方に観て頂いたのですが、その反応には唖然、”で、だから何ナノ?”結構ショックでした(笑)2013年9月10日 13:40 退会ユーザー
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雪のんのさん、みんな騒ぐことなく真剣に聴いてくれましたよ。
僕は子供向けには音楽を書いていないのですが、大人も子供も好意的に聞いてくださった様です。
普段はピアノは横に向いているので表情はみえませんが、今回、弾いてないところで客席を観ると皆さん物語の中に入って居る顔が見えたので幸せでした。2013年9月10日 13:56 白石准 (40)
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月光花さん、それは残念でしたね。
自分の思いが鑑賞者に伝わらないというのは実にショックなものですね。
でもそれは相手が興味無いからといって自分の心のシャッターを閉めると独善的になる危険がありますね。
常に百人居たら百人の感想と関心の濃淡があるわけで、音楽でも何でもそれで生活をする人は、どんなプライドを持って上手く行ったと自負しても、相手に何も伝わらないのは、やっぱり提供の仕方がどこか何か足りないのではないかという反省をしないと、「こいつらまったくわかんねえやつらなんだ」といって吐き捨てても良いですが、そうは行かない立場もあります。
僕は常に音楽ではそのギャンブルの中に身を置いていますから、自分の思い入れとは別に、「何かもっと歩み寄る事はできないか」ということと、「そうじゃない、こういう価値感も気づいてくれ」という相反する指向を試行(駄洒落にしてみた(爆))しつづけています。
だから、趣味でやる写真をやっていてどんなに褒められてもプロになれるかもなんてことはつゆほども思いません。
仕事で撮るということは、音楽と同じで自分の好きな様に出来ない事がわかっているからです。
ですから、僕はまず「黙っていても面白がって貰えそう」なんて希望的観測は一切無しで舞台に出ていきますよ。
相手を口説くために色んな技を磨くのです。そのための心のトレーニングが僕にとっての写真です。2013年9月10日 14:17 白石准 (40)
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音楽の良さは、人それぞれの感情を自分なりに出来る事です。他人の感情もそれぞれだと思います。だから感情が一致するとお互いの性格や、趣味が分かりえると思う。音楽は人間の感情を音の世界として主張しているのではないかと思います。私は、長年、作曲・作詞・編曲をしています。出来た喜びは他人に褒めてもらいたいというのが本音だと思うが、如何せん一人よがりの傾向が相手を説き伏せる傾向になってしまします。
勿論、カメラも似たような傾向がありますが、自分の作品は自分のものとして誇りを持てば、他人がどのように論評をしてくれるかが、自分への見えないものへの近道でないかと思います。ですから、この写真を見て、素晴らしいチャンスを得たなと思いますよ。そして、思いを込めた作曲に乾杯です。!!!2013年9月11日 19:52 nohyan (39)
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nohyanさん、ありがとうございます。
作曲と作詞もされるんですね:-)
まあ言葉のある「歌」を作曲する場合はやはり「感情」というものが焦点になることが多いでしょうね。
僕の場合、たとえばこの作品でいえば、主人公の感情の象徴の時もあれば、主人公の気持ちとは関係ない情景や、純粋に器楽曲の様な時は、ダンスだったり、もちろんそれも感情があるないで違って来ますが、風景写真と似ていて、余り自分の気持ちがこもると自分は良いけど、見て居る人が、もっとシンプルに静物や景色を観たいのになと思う事もありましょう?
だから、なんでも感情が中心というわけではないですよね。
あるがままのものを写し取ることと、そこに魂が入っていることをどのくらいの濃さで表現するか、僕は趣味ならいざ知らず、音楽は自己表現だとは思って居ません。
音楽の内容を表現することであって、それがユニークであれば自分を評価して貰えたらラッキーというところでしょう。
そうじゃないと、「俺が俺が」になって、音楽(この場合“セロ弾きのゴーシュ”)を聴きに来たはずなのに白石准ばかりが見える音楽は僕に興味が無ければなにも伝わらないのですから。
将来、nohyanさんにも聴いて頂くチャンスが来ることをお待ちしています。2013年9月11日 20:24 白石准 (40)
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白石さん、
良い仕事してますね、文化の香る社会を作るためのお仕事をしていらっしゃる、
素晴らしい。2013年9月13日 20:45 黒男 (6)
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黒男さん、ありがとうございます。
大きなホールで弾くこともありますが、この作品は特に、このくらいの大きさの方が伝わりやすいのです。
本当はマイクも無しで伝わる位の広さが最も良い大きさなんです。
(子供の心を失ってない)大人の笑顔も素敵でしたし、一見表情が豊かでないような子供も終演後、本を改めて借りようとしている姿をみていとおしく思いました。2013年9月13日 23:11 白石准 (40)
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