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みんなどこへいくの

写真: みんなどこへいくの

写真: 見方 写真: やねせんキャットウォーク

「私たちにとって汚いものは、見ないことにしましょう。
 都合の悪いことは、聞かないことにしましょう。
 秀でているものは、みんなのために役立てましょう。 
 劣っているものは、みんなのために底上げしましょう。
 みんな平等で、普通の、美しい、理想郷を作りましょう。
 ちょっと個性的だったり、風変わりだったりする人もいるけど、
 役立つならば利用すればいい。
 気に入らなければ、『普通に』直してあげればいいんだ。」

ねえ、まってよ。
いままでも、これからも、ぼくは、ぼくだよ。
ぼくがみえているもの、きこえているものは、
なにもかわっていないし、かえられないよ。
とじるふたをかえても、なにもかわらないよ。
ぼくは、ありのままにいきているだけなのに、
ぼくの『普通』は、『不通』のままだよ。
おねがいだから、みんなの『普通』を、おしつけないで。
なにがまちがっているのかなあ。

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コメント (7)

  • miyako

    皆、自分の基準が常識だと思って生きています。
    自分にとっての常識は誰かにとって非常識かもしれないけれど。
    自国の常識は他国にとっては非常識かもしれない。
    何が間違っているか、何が正しいか、絶対的な判断なんて
    誰も出来ないかもしれない。
    大体、自分にとっての利益が常識だと思っているんですもんね。

    2014年3月20日 17:45 miyako (11)

  • ぼーもあ

    >miyako 様
    コメントありがとうございます。
    どうお返ししても、無礼で尊大になりそうなので、
    先に「すいません」と、謝っておきます。

    誰もが自分の常識を持っているとは、私も思います。
    その常識を、大多数が共有出来るようになれば、
    それは個人の常識ではなく、世界の規範=正しいモノになります。
    正しいモノから逸脱したうえで、それが世界に受け入れられれば、
    「立派なモノ」になりますし、受け入れられなければ、
    「害をもたらすモノ」になります。私は、そう思っています。

    2014年3月20日 22:49 ぼーもあ (12)

  • ぼーもあ

    逸脱にも二種類あると、私は考えています。
    理解した上での逸脱と、理解不可能な上での逸脱です。
    写真のヒトは、左手で写真を撮っています。
    しかし、そう撮ることで、
    「世の大多数のヒト(右利き)が、何かを咄嗟に捕まえようとするにあたり、
     自然に見えるであろう視線」
    の写真を目指して撮っているので、前者になります。
    別に、左利きであろうと右手は生えていますので、
    矯正でもされない限りは、不都合があれば右手を使うかと思います。
    少なくとも、今の私はそうしています。

    では、後者であった場合は。
    「理解したくない」と「理解不可能」は違います。
    「したくない」は、「出来るけどやらない」であって、いわゆる「甘え」です。
    言い訳、言い分は色々あるでしょうが、お互いに通じる理由がある以上、
    逸脱しないための共通認識(新しい世界の規範)を見出すことは、
    決してゼロではありません。
    一方で、「不可能」は、「出来ない」ことです。

    2014年3月20日 22:50 ぼーもあ (12)

  • ぼーもあ

    以下は仮定の話であり、この写真が示したい、問いかけです。
    『文字は読めるし、意味していることはわかる。』
    『聞いた言葉の音を、視覚映像や写真のように認識する。』
    『上二つの合わせ技で、単語や動作を関連付けて認識しづらい。』
    『四桁の数字を暗唱出来ない。』
    『聴力に問題は無いが、一つの音に集中出来ない。』
    『話し言葉の使い方がわからないから、書き言葉を話すしか無い。
     いかなる状況でも頭の中で台本を書き上げてから読む。』など、他多数
    『でも、産まれてこの方、自分のことを普通だと思っている。』 

    写真のヒト(私とする)が、以上の『』を全て満たす人間であったとして、
    世界の規範は私を「普通」の人として、理解出来るでしょうか。
    仮定の話と記載しましたが、このような人間は実在します。
    でも、私にとっての普通は『』であり、それ以外のやり方を理解出来ないので、
    私にそれは受け入れられません。キャプションのひらがな表記は、それを示しています。
    どうやって、共通認識を見出しましょうか。
    理解出来ない対象を受け入れますか、見捨てますか、無理矢理直しますか。
    それとも、他の選択肢が存在しますか。
    私から見た、逸脱したヒトは動き続けています。時計の針は戻りません。

    2014年3月20日 22:50 ぼーもあ (12)

  • miyako

    難しすぎてよくわかりません。(笑)
    すみません、こんなに説明して頂いているのに。

    2014年3月24日 15:06 miyako (11)

  • ぼーもあ

    >miyako 様
    小難しく書きすぎましたか、すいません。(笑)
    感覚的な内容なので、もっとざっくり書きますね。

    「10人の日本人の成人が温泉に入っています。
     1人は耐え難い温度だと思っています。
     何とかお湯の温度を下げようと、声に出し、
     水を入れようとしますが、他の9人には力づくで
     止められてしまいます。何でわからないんだろう。」 

    「10人の日本人の成人が温泉に入っています。
     9人はちょうど良い温度だと思っています。
     空気の読めない輩が、叫ぶわ水を入れるわ、
     どうしようも無い有様で困っています。
     あいつ、出て行けば良いのに。何でわからないんだろう。」

    同じ状況下で、それぞれが自分の感覚・主観を「普通」と思っていると、
    すり合う数が多い方が「常識」であり、「普通」になっちゃいます。
    温泉なら出て行けば良いですが、世界から出て行ったら、あの世行きです。
    実際のところ、「常識」外れの「突飛」な感覚の持ち主っているんです。
    「常識」のモノサシでそれを測ろうとしても、当人たちは困惑します。
    当人にとっては、「常識」こそが「突飛」であり、「突飛」こそ「普通」だから。
    たまたま、数が少なかっただけで、慣れない温泉に強制的に入らされているんです。
    この写真とキャプションが言いたいのは、そういうことです。

    2014年3月24日 22:10 ぼーもあ (12)

  • ぼーもあ

    で、「突飛」な感覚の持ち主というのは、大体、代償なのか、何かが欠けています。
    個人的には、感覚が凸凹しているだけなのだと思っています。
    …表現として記載したくなかったので、上では明言を避けましたが、
    五体満足であっても感覚処理が極端な方というのが、いるんです。

    「常識」と「突飛」に、お互いの妥協点はあるのか、無いのか。
    あるとして、それは言葉じゃなきゃいけないのか、違うものでも良いのか。
    「常識」外れであっても、好奇や羨望、奇異の目で見られることなく、
    感覚処理の手段として、当たり前のように使用されることはあるのか。

    一応ね、日本史の勉強とともに、ここ数年来の研究課題なんです。
    自分が当事者とされているわけではないので、本を読んで、まとめているだけですけれど。

    2014年3月24日 22:20 ぼーもあ (12)

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